本当は『言葉』を大切にしたい
普通に仕事して、
生活して、
ってやってる中でも言葉は溢れてくる。
例えば「生きることの意味」とかさ。
まぁでもそれは置いとこ。
どつぼにハマるから(笑)
ってな事考えてたら、
あぁそうゆうとこあるよね、自分には。の壁にぶつかった。
前に書いたエントリー。
外化という行為について。
言葉を推敲せずに垂れ流して、
その中で自分を客観視するみたいな。
ここだけ見るとひどく「言葉」に対して不誠実な感じもする。
実際、適当に言葉を投げ出すことも多い。
でもね、言葉に無頓着な訳ではないんだ。
逆に、言葉を大切にしたいと思ってる自分がいる。
言葉のもつ温度、
ニュアンス、
隠喩に暗喩。
相手の受ける印象や感情に、思いを巡らして、時に巡らしすぎて空回りなんて日常茶飯事。
まぁ、「そこは無視」って割りきることもあるけどさ。
相手の表情や声色の見える対面コミュニケーション。これがやっぱベストやねんけど、、、それができない時のコミュニケーションとして、
①電話
②メール
③手紙
とか並べると、
断然③手紙が好きな自分がいる(笑)
それはきっと、
手紙を送るという手間も含めたまどろっこしさの中に、
自分や相手の書く文字の中に、
他のコミュニケーションには無いものがあるからだろう。
よほどの事がない限り手紙は、
文章を読み返し、
自分の拙い字と向き合う作業がそこにはある。
結果、出さなかった手紙もたくさんあったりするねんけどさ。
日頃は垂れ流しぎみにしてる自分の言葉。
それとは違い、向き合う言葉たち。
届くかな?届かないかも。。と、自分の込めた言葉の温度を、否応なく意識する。
メールであったとしても。
きっとさ、
人は二つに分かれる。
言葉の温度を見ようとする人と、
見ようとしない人。
そりゃまぁ、
そんな簡単に二分はできんのかもしれんけど。
言葉に深く傷ついたり、
逆に助けられたり、
そんな経験のある人はきっと、
言葉の温度とか質量とかを感じてる。
だから、自分が放つそれにも意識がおよぶ。
だから、言葉を大切にする人に惹かれる。
どんなに日頃言葉を垂れ流していても、
その実、強く言葉の力を信じている。