【書評的なもの:殺人犯はそこにいる(清水潔 新潮文庫)】

どう書けばよいかわからんが、何か書かなあかん。読後の色んな感情を掬いとらな、そんな気になる。

先に立つ感情、
「ただただ、色んな人に読んでほしい、知ってほしい」
それがこの本の訴えるところだと思うから。
挑み続け、あがき続けた著者が、
行き詰まり、それでも奮い立ち、
本という媒体を通して訴えかける、
祈りや願いだと思うから。

 

未解決事件の特集を組む一人の報道記者がいた。
題材に選んだのは一つの幼女行方不明事件。
県境に接する町で起きたその事件は、
調べてみると隣接県にまたがる半径10キロの中で、
過去17年の内に酷似する4件の幼女誘拐殺人が起こっていた。
「これは連続幼女誘拐殺人事件ではないのか?」
しかし、これまでそのような報道はされていない。
そのはずだ、この内1件は犯人が捕まっており、最高裁無期懲役も確定している。
それでも拭えない疑念。
「もし、、、もしもその1件が冤罪だとしたら。。」
「真犯人は今もなお、のうのうと生きている!!」
有罪率99.8%の日本。
警察、検察、司法、科学鑑定・・・・

冤罪を晴らすことになど興味はない。
だが、「自分の仮説を証明するには。今もなお真犯人が野放しにされているとするなら。冤罪と証明することでしか道は開かれない。」
被害者家族、記者クラブを中心に動くマスメディア、司法における判例主義。。
いくつもの障壁と対峙しながら孤独な戦いに挑み続ける。

長い説明だがそんな話だ。

複雑に絡まりあう事件や思惑。
見え隠れする不都合な真実
印象操作の片棒を担ぐマスメディアの構造。
司法制度の持つ「合理的疑いを越えた証明」という曖昧模糊な魔物。
神格化された科学捜査手法。
遺族の葛藤や憤り。
事件報道のプロセスに内包される困難さや危うさ。
そもそものジャーナリズムが目指すべきスタンス。

この本は、これら全てが見事なまでに表現されている。

果たして、このような物語を人が紡ぐことが可能なのか!?

答えは【否】だ。

この本の持つ、潜在的であり決定的な衝撃は、【これは小説ではない、真実(ルポタージュ)なのだ】ということだ。

 

「事実は小説より奇なり」
と言われるが、そりゃそうかもな、と思う。
だって、どんだけ小説の背景設定を掘り下げたって、
幾重にも絡まりあった数多の機関や人々の思惑や心情までもを、
プロットして紡ぎあげることなんて出来ないだろうから。

500ページを越える本だが、
読み進めるのは難くない。
むしろ一気読みを強いられる。
そこにある圧倒的な熱量に引きずりこまれる。
ただ後半、本をめくる手は重くなる。
この本の持つ性質、自分の中の記憶、そのどちらもが示唆する結末と向かい合うことになるから。

この本に書かれていること全てが【真実】ではないかもしれない。
そもそも、【真実である】といった担保など取りようがないのだ。
公的機関の発表でさえ(こそが)、ねじ曲げられていることも多い。

そんな意味でもこの本の持つ意味は大きい。
「100を調べて10を書く。10しか調べられなければ1しか書くべきではない」
そう本の中で記述されるように、
【事件報道】における取材手法や取材量に関しても多くのものが提示されている。
そして、この著者の狂喜すら感じる取材量に圧倒される。
「単なる推論ではなく、事実の連なりの先に真実(と思われるもの)の輪郭は浮かび上がってくる」
そんな風に思えた。
まさに「合理的疑いを越えた証明」だ。
(つまりは採用されなかった事実:残証拠がある可能性はあるだろう)
そして、日頃触れている情報が、それを受け取っている自分自身が、
どれ程危ういものを孕んでいるかに気付かされる。

この本でも描かれるが、
この著者はすでに、溶接されて開きようのない扉をぶち壊し、
日本を動かしている。
それでも当初に掲げた目的は、願いは、叶ってやしない。
これまでこの著者が行ってきた取材から推測されるものが、
あまりにも巨大な【不都合な真実】を指し示したから。

だからこそ本にするしかなかった。
少しでも現状を変えるため。

そんな切実さが滲む。

読み終えたあとに残るのは、
どうしようもない憤りや不信。
それでもなお、「読まなければよかった、知らなければよかった」とは思えない。

むしろ「知らなければならなかった」
そう強く感じる本だ。